授業名:超域展開力・映像表現Ⅰ
担当教員:本間 直樹(CSCD)
     久保田 徹(CSCD)
Texted BY: 文学研究科 2015年度生 吉野 裕太

ある芸術の起源が,その本質の何物かを垣間見せているとすれば,サイレント映画とトーキー映画*1は,探求者たちの抱いていた始原的神話を少しずつ実現していく技術上の進展の各段階とみなすことができる.そうした観点からすると,サイレント映画こそが一種の始原的完成状態であって,音と色彩という新たなリアリズム的要素が加わることで,映画はそこから徐々に離反していくなどという考え方は馬鹿げていることがわかるだろう.

アンドレ・バザン『映画とは何か』(Bazin 1975=2015: 31)

*1サイレント映画の対義語。音声付きの映画のことを指す。

■授業の概要

 この授業は、映像を実際に撮影・編集することで、いわゆる話し言葉や書き言葉によらない表現技法について模索する授業でした。授業は全5回行なわれましたが、まずイントロダクションとして、映画の歴史についての講習がありました。その内容は、映画の創始者リュミエール兄弟*2の「工場の出口」を鑑賞し、感想を述べあうというものでした。その後は、実際に映像を撮影・編集し、再び受講生同士で意見交換を行ないました。最初の映像撮影は、リュミエール兄弟に倣い、1分間カメラを固定して、サイレント形式で行ないました。次に行なわれた映像撮影では、時間は同じく1分間でしたが、今度はカメラを固定せずに、自由に映像を撮り、トーキー形式で行ないました。そして、映像の編集についての講習を1度挟んでから、最大5分を上限に、先生から与えられたテーマについて、受講生各々が、好きな場所・時間で映像の撮影・編集をした後、最期の授業で持ち寄り、発表しあい、それらの批評ならびに人気投票が行なわれました。

*2エジソンと並ぶ、映画の発明者。

■映画という芸術をめぐって

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 私自身は、最初の映像撮影は勝手がよく分からず、自分の読書している様子を撮影しました。サイレントという形式も相まってか、改めて人間の読書という行為そのものに焦点が当たり、読書している時の自分自身の視線の移ろい、ページをめくって読み進めていく速度、腕や足の所作などが、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin 1892-1940)の用語を借りて言えば、「現実の構成要素に深く介入していく」(Benjamin [1935-6]1991: 374)ように分解され、精査されているようでした。他の受講生は、エレベーターの動作を撮影していたり、街灯などを撮影していたりしていました。「全てのものは二度作られる」という言葉があるように、ものの創造(この場合は映像作品)には想像による創造と、それを実現するための実際的な創造という二つの段階が備わっています。弁証法的に換言するならば、製作者の自由な想像の段階(=テーゼ)、および、実際の物質的制約(=アンチテーゼ)、つまりビデオカメラという物質が果たす機能による制約を踏まえた上で、実際的に作品(=ジンテーゼ)が完成するのです。こうした弁証法の機能を読み解いていけば、作品の内在的動機というものを探り当てることも可能になります。それはつまり、作品から物質的制約を差し引いて考えれば、自ずと製作者の意図というものが浮き彫りになるということです。例えば、私の読書行為を一つのシーンとして切り取って考えてみると、そこで様々に発せられている音や、作品には映写されていない時間というものが、製作者の意図つまり最初の想像として、裏返しの形で説明されることになります。このように考えれば、バザン(André Bazin 1918-1958)の次のような定式は完全に正しいことが分かります。それはすなわち、「映画に加えられるあらゆる技術的改善は、逆説的にも映画をその起源へと近づけることしかできない」(Bazin 1975=2015: 32)。

■限界芸術としての映像作品

 次の映像撮影では、私は夜景を撮影しました。私は夜景を美しいと思ったことがないため、そこで夜景の構成要素の機能を読み解こうと努めました。その際私が強く意識していたのは、鶴見俊輔(1922-2015)が述べるところの限界芸術*3の一種としての映像作品というものでした。そうした理念に則った作品を撮ろうという意図はあったものの、映像自体は実に陳腐なものとなったため、こうした意図だけでは優れた映像作品を作ることはできないことに、自分自身で気付くことになりました。他の受講生は、二度目の撮影によって可能になった〈音〉や〈移動〉という要素を可能な限り取り入れている人がほとんどでした。なかには、自身が研究しているロボットの撮影を行なっていた受講生もおり、普段は知り得ない工学系のラボの様子や、話には聞いていた実験に使われるロボットの中身を垣間見ることができてとても良かったように思います。また、私のようにあえて定点カメラに設定して、バイクの走行音を主題として選び取っている学生などもいました。しかし今思うと、私の方は車や電車などの〈移動〉を、その受講生はバイクの走る〈音〉を重視しすぎたため、全体的にアンバランスな出来であった風に思えました。逆に、工学系のラボの様子を映した映像がとても良いと思えたのは、〈移動〉と〈音〉の要素をうまく取り入れることに成功し、さらに何を見せたいかという意図とうまく合致していたからではないでしょうか。

*3限界芸術とは、「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」芸術である(鶴見 [1960]1991: 7)。

■家族とは何か?

 最後に、最大5分間の映像撮影がありましたが、これまで自由にテーマを設定していたのとは打って変わって、テーマが設けられました。そのテーマとは「あなたにとって家族とは何か」というものであり、受講生はこのテーマに則って、映像作品を作るというものでした。私は、臨床哲学研究室に所属していた先輩と一緒に、このテーマ設定を問い直す映像を撮影しました。本当は、先輩が飼っている猫たちの様子を撮影したかったのですが、その猫同士の仲が全然よくなく、戯れる映像を撮るどころか、一緒に映っている風景すら撮るのが困難で、同じ空間で飯を食べ、寝るのを共にしながらも、互いにほとんど干渉しあわないこの光景を見て、「家族」とは一体何なのかを自分なりに問い直さざるを得ませんでした。そうしたなか、先輩が座談会形式で映像を撮ることを提案してくださり、上記のテーマに沿った映像を撮影することになりました。そして、出た結論としては、「家族でないものはない」というものになりました。このような結論に至った過程をお見せできないのが残念ですが、アドリブで時事問題について触れたり、アクシデントをあえてそのまま残し、映像そのものを強く印象付けるように工夫しました。それは、座談会形式ということもあり、上記で示した〈移動〉の部分が、どうしても抜け落ちてしまうため、全体としての印象が薄れるかもしれないと判断したためです。そして結果的には、カメラの視点こそは動かなかったものの、私や先輩の身振り手振りが大きく強調されることになり、この試みは成功していたように感じました。

【参考文献一覧】
・Bazin, André, 1975, Qu’est-ce que le cinéma?, Paris: Les Éditions du Cerf.(=2015,野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳『映画とは何か(上)』岩波書店.)
・Benjamin, Walter, [1935-6]1991, Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit, zweite Version, in: Ders., Gesammelte Schriften, Bd. 7, hg. v. Rolf Tiedemann u. Herman Schweppenhäuser, Frankfurt a/M.: Suhrkamp, 350-84.
・鶴見俊輔,[1960]1991,「芸術の発展」『鶴見俊輔集 6 限界芸術論』筑摩書房,3-60.