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Texted by 人間科学研究科 2015年度生 小林 勇輝
理学研究科 2015年度生 竹野 祐輔

Part2:ことなる文化との出会い

Reported by 2015年度生 竹野 祐輔

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 僕たちは、8/6から9/6の一か月間をメルボルンで過ごした。一ヵ月という期間は語学を身に付けるにはいささか短いかもしれない。だがそこで体験した様々な出来事、そこで感じた人々の暮らしはとても刺激的なものであった。短くではあるが、ここに報告させていただく。
 メルボルンはシドニーに次ぐオーストラリア第二の都市で、南部のヴィクトリア地域に位置する。すぐ近くにはタスマニア州があり、南極に近い街だ。記事の前半では小林くんが英語学習についてまとめてくれたので、僕はこのメルボルンで感じたことや文化について述べていきたい。

メルボルンでの暮らし

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 僕たちは、滞在の一ヵ月のうち、ほとんどの日をメルボルンで過ごした。この街で暮らしてみて、「時間が経つのが早い」ことにまず驚いた。もちろん、日本の生活とは違う新鮮な毎日に刺激され、時間の早さを感じたのもあるが、理由はそれだけではない。メルボルンでは、店も電車も営業時間が日本と比べて少し短いのだ。20時過ぎにレストランに入ると「21時には閉まるから」と忠告されたり、ホームステイ先から目的地までメトロ(地下鉄)で移動する際に、日曜日の始発が7時台で集合時間に間に合わなかったり、メルボルンの時間に慣れず、何度か失敗してしまったことがあった。これに関しては、こと日本の便利さを痛感したものである。

 メルボルンの夜は、油断するとあっという間にやってきた。そして、その夜もあっという間に終わってしまうのであった。僕の時間の感覚がいかに夜型であったのか、こっちに来て初めてわかった気がした。21時ごろ偶然すれ違った中国人のクラスメイトに「こんな遅くにどこかへ行くの?」と聞かれたこともあったし、バーに入って盛り上がっているのに22時頃から少しずつ店が閉まっていくのも体験した。ラストオーダーは23時前だった。そのバーは駅前の一番目立つ店だったから、これにもまた少しだけ驚いた。みんなどこで夜更かししているのだろうかと変な心配までしてしまったほどだ。僕の感覚では、21時は学生にとってはまだ「早い」時間であるし、バーを初めとする飲食店は日付が変わっても営業しているものだ、と思っていた。それが駅前の大きな店であれば、夜通し営業していても「普通」ではないか、と最初は思ったものだ。そんな環境に季節が真逆だったことも関係していただろう、メルボルンの夜はあっという間にやってきて、そして終わってしまうのであった。このように、メルボルンの時間は早かった。

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 いろいろと考えてみると、どうやら原因は労働環境が日本とはかなり違うことにあるようだ。日曜日には街の駅のホームが半分程度閉まっていたり、滞在の一ヵ月の間に何度もストライキで電車が止まったりすることを経験した。家族の誕生日には当たり前に会社を休む共通認識もあるらしい。どれも日本ではあまり体験しないことである。日曜日も電車が当たり前に動き、そして滅多にストライキもしない。もしかすると日本人は働きすぎなのだろうか、そんな疑問さえ持ったほどだった。メルボルンでの暮らしは僕に面白い学びの機会を与えてくれた。自国との比較をする大変いい機会であった。

文化と人

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 メルボルンは多くの人が「混ざって」生きていた街だった。現地を歩いてそれを感じ、移民博物館にも行った僕の学んだことである。小林くんの記事中のグラフにもメルボルンの人口構成は示されている。興味のある方は見てみてほしい。

 メルボルンは、我々がもつ英語圏のイメージにあるような白人の街ではないのだ。街を歩けば色々なところから来たであろう人々を見ることが出来たし、どこの国の料理だって少し足をのばせばレストランを見つけることができた。街の中心には大きな中華街があったし、おいしいフォー(ベトナム料理)も食べることができた。お寿司だってそこら中で食べられる。同期の仲間が、みんな別の文化を持ったホームステイ先に入ったのも印象的なことだった。毎日カレーを食べていると言っていた友人もいたし、米なんか一つも出ないと言っている人もいた。自分は、と言うと香港からの家族が迎え入れてくれた。晩御飯は毎日「お米とおかず」という形式で、しかもお米は「こしひかり」だった。メルボルンに来る前は和食が懐かしくなる瞬間が来るかも、と心配していたが、全くいらぬ心配であった。家に醤油もみりんも料理酒もあると教えてくれた時はさすがに笑ってしまった。食事一つとっても、家一つ、道一つ越えるだけで様々な文化がそこにはあった。

 なにやらメルボルンは世界で最も住みやすい街一位だとうわさで聞いたが、それはこのごっちゃ混ぜの空間が誰にとっても等しくあることによるのかもしれない。様々な文化を持った人が自分たちの生き方で暮らしていた。皆が自分の好きに生きているように見えたし、居心地は悪そうではなかった。もちろん僕はみんなに「好きに生きていますか」と聞いたわけではない。だけど僕自身街を歩きながら「ここなら外から来た人とは思われないのかもしれない」と少なからず感じたものだった。滞在はたった一ヵ月ではあったが、いくばくか街になじめたような気がした。

 街の雰囲気について言及するなら、一人でさっと食事を取るような店が少なかったのも印象的であった。日本では牛丼屋をはじめ、ラーメンも、食事に時間をかけないためのお店が多いという印象が,皆さんにもないだろうか。少なくとも僕の滞在期間中では、メルボルンでそれらの店には「お一人様」の客はほとんどいなかった。日本式のラーメン屋にすら一人で来ている客はいなかったのだ。これは僕にとって一つの大きなカルチャーショックであった。

 ホストマザーに「一人でご飯を食べている人を全然見ないね」と聞いてみたところ、「みんな一人でいるときは家で食べるのよ」と教えてくれた。これがメルボルンの人全員に当てはまるかどうかはわからないが、食事の意味について考えるのには十分だった。誰かが「食事は費用対時間で見ればかなり贅沢な趣味の一つ」と言っていたこと、それから「人生で思うように摂れる食事の回数って意外と少ないよね」と言っていたことも思い出した。食事にゆったりと時間を取って、そして好きなものを食べて生きていけるのは案外贅沢なことなのかもしれない。

歴史と学び

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 ところで、そんなオーストラリアにも、歴史を振り返ってみれば少し悲しい過去がある。移民たちがオーストラリアへの移住を希望したとき、白人たちだけが受け入れられた時代があったようだ。20世紀初め、ゴールドラッシュの時代の白豪主義政策が行われた時代のことだ。これはメルボルンの移民博物館で学んだことである。今の街の様子からでは到底想像できないことだった。博物館では多くの資料、体験記などに触れ、また同時にこれからどうしていくべきか、どんな問題が存在するのかを知ることが出来た。何も学ばずに今だけを見ていては決して気づかなかったことだろう。メルボルンで実際に暮らし街を肌で感じたことも相まって、多くを学び、考えさせられることとなった。これまであまり認識していなかった、歴史を知る意味を強く感じた。この歴史からよりよい未来を作らなければならないのだ。そして僕は複雑な感情に苛まされた。難しいことを論ずるのは得意ではないが、この街で感じた居心地の良さがなくなるような歴史は繰り返してほしくない。当時受け入れを拒まれた人たちは何を思ったのだろう。彼らは彼らが迫害される理由をどこに探したのだろうか、その時の思いは残念ながら僕には想像できない。

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おわりに

 僕がメルボルンで学んだことは英語だけではなかった。一つの街について、今を知り、歴史を知り、そして肌で人を知ったことが大きな学びとなった。これから何をしていくのか、メルボルンへ来たことで何かが変わっただろうか。この街に触れ、この街で学んだことが僕の歴史の一つとなった。この歴史が次は僕の未来を作っていくことになる。本来の目的であった英語学習は言うまでもなく、生活の中で直接感じた毎日が僕の大きな経験となった。僕が納得できる「良い」方向へこの経験を活かしていこうと思う。

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