Activity Reports超域履修生による、ユニークで挑戦的な活動のレポート。

超×超域人
超×超域人 Vol.7
-多様なキャリアと超域-

2022/3/15

インタビュイー:2021年度生 KANG KIWON(人間科学研究科)・遠藤 祐輔(言語文化研究科)
インタビュアー・記事編集:2019年度生 鈴木 寛太郎(工学研究科)
写真撮影・記事編集:2018年度生 岡田 茉弓(言語文化研究科)
記事編集:2020年度生 三宅 萌(人間科学研究科)

 

大阪大学超域イノベーション博士課程プログラムの教員や履修生にインタビューする「超×超域人」!今回は8期生の鈴木寛太郎が、言語文化科博士前期課程1年の遠藤祐輔さん、人間科学研究科博士前期課程1年のKANG KIWONさんにインタビューを行いました。二人の共通点は、「多様なキャリアを築いたうえで大学院に来たこと」。不安定な芸術家として生きるということ、外国人が働くということ、その中での挫折や葛藤のすえの大学院進学と未来のキャリア。そして、超域は彼らにとってどのような意味を持っているのかを探求しました!

 

―社会人になるまでの経歴  2つの専攻と芸術大学での教育

鈴木  今回は、多様なキャリアを築いた後、学生として戻ってこられた方が、どういった経緯で超域にいらっしゃって、キャリアビジョンは今後どのようなものなのかということを、順に聞いていきたいなと思っています。まず、学生時代は何をされていらしたか、お話ししていただけないでしょうか。

 

KANG  専攻は国際学で、主に日本文化に焦点を当てて勉強し、日本語もその時に究めました。私の場合は、第二外国語が日本語だったので、その流れで、もう少し日本を調べてみようと思いました。それから、だんだんと孤独死の問題に興味を持ち始めました。その問題を交換留学先の兵庫県立大学で深めました。大学を卒業してから、通信制大学で教育学士の学位も取りました。教育学での学びとしては、教師は我慢強くないといけないということを学びました。教師は伝えたことを、学生が100パーセント理解することを期待してしまいますが、本来はうまく伝わらず、何度もかみ砕いて説明しないといけないですよね。そのほかにも、学生時代には休学し入隊したこともあります。留学先が日本だった流れで、日本で就職しました。

 

岡田  どうしてそこまで、向学心が強かったのですか。

 

KANG  何か目に見えるゴールが欲しかったのですが、その一つが学位でした。もう一つは、今後、市場として、韓国語の需要が大きくなってくるだろうという見込みがあったので、教育学を学ぼうと思いました。

 

 

 

インタビュイーのKANGさん

 

 

鈴木  国際という観点で日本のことを学びながら、教育で人との接し方や教授方法を学び、二つの学位を持つというのはすごいことですね。遠藤さんは?

 

遠藤  今のお話の後に、とてもお恥ずかしいんですけれども、私、学生としては本当に最低で、1、2カ月に1回しか大学に行かなかったんですよ。私の出身は美術大学で、そこは結局作家を目指す所です。私も自分のこと天才だと思っていて、別に学校なんか行かなくても、俺はこのまま世界的なスーパークリエーターとして、写真家としても売れるからいいやと思っていました。
学生時代の2000年代初頭は、現代美術がとてもはやっていたタイミングでした。村上隆が出てきて、森美術館ができてといったタイミングでした。マーケットもとても活況で、このまま僕は稼げると思っていましたけれど、なかなかうまくいきませんでした。卒業後は、カメラマンの助手として働いて、その後15年ぐらいは、カメラマンを継続してやりました。

 

鈴木  卒業制作は出されましたか?

 

遠藤  もちろん。ただ、全然評価はされませんでした。その一方で、当時評価されていた子たちは今意外と残っていないです。皮肉な話で、僕のように評価されない人間が、実は残っていたりします。今は、フォトグラファーとしてビジネスもやっています。また、アーティストとして作品を売り、展示をし、写真集を出すという仕事もしていて、最近はそちらのほうがメインにはなっています。

 

鈴木  学生時代、2カ月に1回しか大学に行かないかという話でしたが、行っていない時は何をされていたんですか。

 

遠藤  歩いて写真を撮っていましたね。今も変わらないですが、1日20キロ歩きます。あと、釣りをしていました。その後、自転車にはまって、1日200キロぐらいこいで、常に移動していますね。

 

鈴木  東京藝術大学のご出身ということですが、講義はあったんですか?

 

遠藤  私は夜に行って、朝帰るという生活をしていて、講義も出なくても卒業ができました。学校自体の記憶は本当にないです。しかし、コンプレックスで、みんな頑張って作品を作り、20代前半で評価されていた人がいる中で、自分は駄目だと思って、ビジネスのほうに行きました。ビジネスというのは、モデルさんや、物、今期の新製品を撮ることです。しかし、デジタル化で、フォトグラファーという職業自体が、衰退してくことが分かっていました。そこで、仕方なく、作家業をやり始めたんです。作家業というのは、扱ってるメディアが一緒なのですが、美術館での展示や写真集の出版をすることを指します。

 

―社会人としての経歴と挫折

鈴木 そういった学生時代を過ごした後のキャリアはどのようなものだったのですか?

 

KANG 2014年の4月に交換留学が終わり、一度韓国に戻り、韓国の大学を8月に卒業してから2015年に、大阪の中小企業に入社しました。その会社は、2018年まで勤めました。その後は、一時的に韓国に戻りました。韓国にいる間は、韓国語講師の国費研修を受けていました。それから大阪大学での研究生生活を経て、2021年度に正式に大阪大学大学院に入学しました。

 

鈴木 次は、遠藤さんのお話を聞かせていただければと思います。

 

遠藤 卒業後は、学生時代から継続していたカメラマン、写真家の助手を1年ぐらいやって、2008年に独立したのですが、リーマンショックで本当に大変でした。仕事をする予定だった出版社や代理店がつぶれたんです。そこからは浮き沈みも激しかったです。でも、ある時はスタジオに所属し、ある時は自営でやりながら、10年か12年ぐらい何とかやっていました。ただ、デジタルになっていく中で、職業としての優位性がどんどん失われていき、僕はこのビジネスはなくなるなと思いました。一部の特権的な人がやればいいと思いました。
僕は、社会に必要とされない仕事を、進んでやろうとは思わなかったので、作家をやろうと思ったんです。美術大学で作品を作った経験もありましたし、性格的にもそのほうが向いていたわけです。作家業は2015年や2016年ぐらいから、かなり力を入れてやり始めました。2016年ぐらいから、コンペに入賞しだし、ある程度評価されるようになったので、作品制作に集中しようという側面がありました。また、アカデミアで働くことが作家は多いので、アカデミアに行こうと思いました。
そして、3年間桜美林大学の映画学科の専任助手という仕事をしたのち、大阪に来ました。なぜなら、学部卒でアカデミアに働いていたのが、僕しかいなかったのです。コロナの影響で、仕事が減ったこともきっかけになっています。2年ないし5年、ちょっと仕事をセーブし、勉強してアカデミックなスキルを身に着けようと思いました。

 

インタビュイーの遠藤さん

 

 

 

 

 

 

―専門分野の設定  社会人経験の中で感じた疑問

KANG 私が研究者を目指したきっかけでもあるのですけども、軍での経験もそうですし、社会人の経験、大学でも信頼というのが脅かされていました。例えば仕事上、私が専門技術を社内や学内の人たちに伝えないといけないというのに、誰も聞こうとしないことがありました。それは受け手の人たちに「自分たちの利益のために伝えている」という先入観があったかもしれません。どうやれば信じてもらえるのかの悩みが、大学院の入学の動機だったなと思います。

 

 

空軍制服の姿のKANGさん

 

 

鈴木 今のお話でKANGさんの進学後の専門は分かりました。では、遠藤さんの進学後のご専門はなんですか?

 

遠藤 自分の扱ってる分野が、ストリートスナップという、町で写真を撮ることなのですが、SNSや肖像権の意識が変化し、盗撮や窃視のような扱いになっているんです。扱っている問題は、自主制作で解決できないレベルに、複雑な問題に転じたので、アカデミアの中で社会学や情報工学といった違う分野の中で考えたいというのがあります。

 

岡田 実は、遠藤さんの写真集を見て、遠藤さんは、これが撮りたくて撮ったんだろうかと感じたメンバーがいました。

 

遠藤 内なる自分から湧き出る表現みたいなものを、僕はあり得ないと思っています。岡本太郎の例を見れば分かるように、彼はただの優秀な文化人類学者なので、そういう社会問題や、自分の私生活の問題に対して、書く話すとは別のアプローチとしてやっているだけで、撮りたくて撮っていのるかといわれたら、別にそうじゃないと思います。それが、マネタイズできる、超域みたいな所に来られるといったメリットがあり、自分のライフ構想の中で兼ね合うからやっています。

 

岡田 写真集を見たメンバーは遠藤さんが、心の奥底から美しいと思って撮っていたのだろうかという疑問が、最後に残ったと言っていましたが、どう思いますか。

 

遠藤 全然、美しいと思っていないです。僕が別に撮ったことを覚えていないぐらい、1日1000枚ぐらい撮り、後から見て気になったものを作品として出すので、ものと出会って、いいなと思って撮った写真は、ほとんどないです。むしろ、写真になってびっくりした、ある種の悪意みたいなものが転じてやっていたりするので、遠藤君は写真が嫌いだよねとよく言われます。ストリートスナップは嫌いで、憎んでいるし、なくなればいいと思っています。搾取的行為で、おじさんたちが喜んでやっているだけだからということを、こねくり回りして、今、僕は作家として作品を出しています。

 

岡田 作家業の中で理想がどこかにあるとは思っていますか?

 

遠藤 ストリートスナップは今のアート界ではきれいと言えないんです。ジェンダーや、LGBTや、ポストコロニアルみたいな作品ではないといけない。そういったものが美しいという風潮があります。ただ、本当にそれで、おまえの目はよろこんでいるのかと思うわけです。僕は最終的には、フラットに、あの絵がきれいだねと言え、それがある種、民主的に正しく評価され、売買され、これが好きと言えるような世の中になればいいなという、大目標みたいなのがあって、やっています。

 

 

―大学院進学への決意  疑問への挑戦

鈴木 では次に、職歴との兼ね合いで、なんで現在の専門に進もうと思ったのかを、お話ししていただければと思います。

 

KANG 私の専門は科学哲学で、きっかけは仕事上の話ですね。私が思う科学というのは、知識の体系そのものです。新しい知識が信頼されていないことが仕事上においてとても困って、ストレスを抱えたということが最初のきっかけです。それを解消しようとすると、そもそも、知識というのはどうやって正当化されるのかということを、極めるべきだと思い、科学哲学を選びました。知識、情報の正当化ということは、どのように成り立つのだろうかということは、常に思っている疑問の一つです。科学哲学を専攻することで、何か答えを出したいですね。

 

岡田 哲学は、学部の専攻と違う学問ですよね。そのことに対して、何か葛藤はありましたか?

 

KANG 昔は、哲学は古い人の考え方を習うだけだと思っていました。だから、哲学は参考にならないと、25歳ぐらいまで壁を作っていました。でも、自分が色んな問題に疑問を持ち始め、その苦悩が結局、哲学につながるということに気付くことができました。私からすると、それは自分の中の壁を乗り越えたことだと思っています。それから、今、直面している壁は、科学哲学は何ができるかという問いに答えることです。実際、科学哲学は初めて聞く分野だという話を、よく耳にします。ただ、科学が発達した今日だからこそ、科学とは何かということを考える科学哲学は必要だと捉えています。

 

岡田 遠藤さんは?

 

遠藤 広くいえば、芸術という曖昧なものです。私、仕事がすごく嫌いなんです。でも、その中でも興味を持てたのが、芸術分野でした。自分が仕事をやるモチベーションがあまり起きないのは、お金ではない部分、人間がなぜ生きるかというところに芸術を置いているからかもしれないです。芸術というのがあるから、歴史的に生きてきた人もいるわけだし、僕自身も、ある部分ではそうで、食欲や性欲、名誉欲、そういうのじゃない部分の、ある種の欲として、芸術があると思っています。その中でも特にアカデミアや教育機関にいるということが、面白いです。美術大学が楽しかったということもありますし、自分で教える中で、学生が面白いこと言って、とても刺激になります。アカデミアは、システムとしての知の集積があると同時に、コミュニケーションの中で突然起こる、ある種の失敗作が面白いと思っています。

 

岡田 20キロ歩いて1枚あるかないかの世界は苦痛だが、やっているということは、そこに何かトリガーがあるということですか?

 

遠藤 非効率なことをやれるという矛盾が、自分をアイデンティファイしてると思っています。効率的にやっていくと、それは芸術ではなくて工業のような、違うものになっていくと思いますし、一方で、1秒で描いて50億みたいな世界もあるじゃないですか。かかっているコストと、評価や価値化の非対称性みたいなものが、面白いなと思います。そういう意味で、僕は結構ハードボイルドな、ひたすら歩くということをやっているけれど、本心を言えば、ぱあって描いて50億のほうがいいですよね。

 

鈴木 面白くなさも、大学院で探し出したいという思いがあるのですか?

 

遠藤 僕はうまくテキスト化できないのですが、自分でも考え、取り組んでいることをテキスト化したら面白いんじゃないかなと思っています。言語文化研究科という所にいるのですけど、写真はすごく言語文化に近い、あらゆる芸術メディアの中で、最もテキストに寄り添っているメディアなんです。写真家自体のテキストがないと、何も価値がないもののほうが多くて、コンテクストを描くことをすごく大事にしています。その中で、自分のスキルとして、テキストを書く能力が、本当に欠けてるなと思います。

―進学への反対と周りの反響 対極的な状況を乗り越えて

鈴木 大学院に行くという、一般的な人々と違うキャリアを積むことに対しての不安感や反対、その不安感を凌駕する期待感はありましたか?

 

KANG 不安はなかったですが、結構、反対はされました。学部の恩師からも厳しいことを言われました。あなたの年では必ずアカデミアに残られるという保証はない、現実を見ろといいう意味のお言葉だったと思います。

 

岡田 まだ30代前半ですよね?

 

KANG 32なので、私的には、まだいけるだろうという思いはあって来ていますけれども、一般的に遅れているというのは事実だと思います。特に韓国だと文系の進学率は高くないので、余計そう思います。それでも反対を乗り越えて、今に至っているという感じです。

 

岡田 遠藤さんは?

 

遠藤 キャリアが特殊かということでは、特殊ではないと思います。ただ、国や大学がやっているような、社会人の再教育という点では、もっと社会人学生がいるのかなと思っていたら、予想外にいなかったです。作家のような僕のジャンルの人もあんまりいない。その点には驚きました。不安かどうかという話は、別に不安はないです。フリーになった瞬間、リーマンショックになった時に比べれば。

 

鈴木 強いですね。

 

 

 

インタビュー風景

 

 

遠藤 20年間で日本の博士後期に行く人が半分になる中で、特に美術系に需要があるとは思いませんが、美術寄りの教員の需要は実感としてもありますし、募集としても多いとは思います。僕は実務家教員ですけど、実務家教員は現状では、修士程度の学位しか求められていないですが、そのうち博士まで求められるようになるので、不安もないし、別に誰かに反対されたわけはないです。僕が作ってる作品は、ロジカルなので、遠藤君はそういう所に行ったほうがいいんじゃないの?とも言われましたし、もともと、学部の時も、院においでよと先生に言われていましたが、当時の僕は目先のビジネスに目がくらみました。そして、15年経て戻ってきたというだけです。

 

岡田 その強さはリーマンショックの時に培われたものですか?

 

遠藤 それもありますし、僕は学部生の時もとても貧乏で、10円単位でお金を計算して生きていたんです。僕は片親で、奨学金に頼って生きていたということもあり、タフになりました。高校生で親が離婚したタイミングで、一緒に暮らしたくなくて、一人暮らしを何と勝ち取って、一人で生活してたので、スーパータフなのはそういうところがあるかもしれません。僕はずっと一人で生きてきたので、別に誰から文句を言われても話は聞かないし、不安も何もなかったです。

 

岡田 野良猫みたいな人生ですね。

 

遠藤 そうだと思いますね。美術自体まっとうなキャリアを積み上げたものに対して、魅力を感じないじゃないですか。そういうものをいいと思うんですよね。

 

鈴木 友人も含めて、職場で、大阪大学に入ることに対して、周りの反応はどうでしたか?

 

KANG 大阪大学ということであれば、認められたという思いがありますね。周りの肯定的な反応は、本音を言うと、少しうれしかったです。ただ、私としては、きちんとした大学院教育を受けられたということの方が、非常にうれしいですね。特に超域の授業は、一般では受けられない貴重な経験なので、今人生の中で、とても濃い半年になったと思います。

 

遠藤 阪大は、僕の中では一番よく分からない学校でした。そして、実際に阪大にきて、阪大は自由というか、学問を探究する上では、ストレートじゃないキャリアの人間が行く上では、とてもいい環境だと思いました。僕を採るという時点で、学科、学校、超域も含めて、かなり包容力があると思います。実は、東北大に行くような高校の出身なのですが、旧帝大に行くのが嫌で、芸術に行くという変なキャリアをたどったのにもかかわらず、結局、旧帝大の総合大学に戻ったのが、すごくシニカルだし、面白いなと思います。

 

インタビュアーとインタビュイーのお二方(左奥がKANGさん、左手前が遠藤さん)

 

―博士を取ったその先に  多様なキャリアを生かした終活

鈴木 ここで博士を終えて、その後の人生のキャリアプランを聞いていきたいと思っています。

 

KANG 私はアカデミアしかないと思っています。もちろん、できれば自分の専門分野で、とは思いますが、プランBも考えてはいます。私は、韓国語講師の経歴があるので、状況に応じては語学教員としても働きたいと考えています。

 

鈴木 日本でですか?

 

KANG どっちが都合がよいかということによると思います。もし、第三国でのチャンスがあるなら、その可能性も考えたいので、特に国にこだわりはないです。

 

遠藤 それは僕も一緒で、定職としては、アカデミアをもちろん目指していますし、奨学金をもらえれば、博士後期に行きたいと思っています。僕が博士後期を出た時は40歳なので、今の国立大だと25年、私立の長い所では30年勤めることになるので、就活という名の終活ですよね。でも、僕は、突然、縁もゆかりもない地方の大学に行って、その土地に根ざしたフィールドワークをし、そこで写真を撮って、その土地のバナキュラー1みたいな写真を撮って発表することを、人生最後の制作にしたいと思っています。だから、日本の地方大学のテニュアに就きたいと思ってます。作家業をしながら、実務家教員ですが論文指導もできる、非常に実用的で、便利で、いろんな所からお声が掛かるような人材になれれば、ご飯を拾って食べなくてもいいと思っています。
現役の22歳の時はそんなことは全く思いませんでした。大学院に行く人間は負け組だと思っていました。来月、俺はヴェネチア・ビエンナーレ2の招聘作家になると思っていたので。ただそれは、全くもって勘違いでした。大学院に行こうだとか思ったのは、30代からです。

―超域で学ぶこととは?  やりあえる楽しさ、素でいる面白さ

鈴木 これが最後の質問になります。超域で学ぶことの感想をお聞かせいただければと思います。

 

KANG 先ほども申し上げたとおり、一番濃い半年間だったという言葉どおり、今までの自分の経験をどうやって生かしていくのかということと、それをどうやって発信するのかということを見直すチャンスだったと思います。社会人で自分の経験を語るのは、単なる自慢話になって、聞きたくないですよね。でも、ここでは、自分の経験と学業ということが結びついて、何かをつくり出すので、堂々と自分の経験を生かすことができる。かつ、それを言語化することもできるということで、自分を見直すきっかけになったというのが大きいと思います。
もう一つは、超域には遠藤さんのような経歴者や普通の学生もいるので、そういった超域の仲間と比較し、客観的に、自分の社会的な立ち位置を、見つめ直すことができたと思っております。

 

遠藤 楽しいです。僕は、言語文化研究科ではもう少しおとなしくて、いい子にしています。関係性が非対称だと思っているからです。日本語がまだそんなに上手じゃない22、23歳の留学生に対して、僕がわあっとしゃべったら、それは、すごく暴力になるので、優しいおじさんをしています。でも、超域ではストレス発散をしています。22、23歳の子でもとてもタフなので、ちゃんと返してくれるし、僕が知らないことを教えてくれます。年齢関係なく、やり合え、遠慮せずに議論ができ、自分が負けるぐらいのことを言われることもあります。それがすごい楽しく、近しい分野の言語文化研究科では、なかなかできないことだと思います。

 

KANG 今のお話が非常に共感できるのは、私も外で猫をかぶってしまうんです。しかし、ここではそれが遠慮せずできるということが、いいところかなと思います。

 

岡田 タフな人間集まれということですかね。

 

KANG そういうことですね(笑)。

 

 

笑顔でインタビューに答えるKANGさん

(了)

 

 

 

(注)
1 バナキュラー:「土着の」「その土地固有の」「日常的な話し言葉の」などといった意味。
2 ヴェネチア・ビエンナーレ:イタリアのヴェネツィアで1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会。国が出展単位となっており、国同士が威信をかけて展示を行い賞レースすることから、「美術のオリンピック」とも称される。