小倉 拓也(おぐらたくや)
特任教員紹介
小倉 拓也(おぐらたくや)
特任助教
専門分野 哲学・現代思想
担当業務 選抜審査評価、教務
担当授業 超域イノベーション実践
超域イノベーション展開(授業レポート) 他
チューター担当
学部・学科
生命機能・薬学・医学系・歯学系・薬学系4年生
研究関心 狂気や老いなどの人間学的事象に関する哲学的研究
芸術作品の存在論
哲学文献の基礎研究
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研究紹介

 専門は哲学です。埃まみれの部屋に閉じこもって、咳をしながら、延々と文献を読み論文を書くということをしてきました。具体的な研究対象は、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの哲学です。博士論文に至るまでの研究では、ドゥルーズの哲学を、言語学、美学、精神医学、現象学などの人間諸科学との関係のなかで探求してきました。研究をはじめた当初は、ドゥルーズの哲学そのものに関心があったのですが、精神医学や美学との関係のなかで研究に取り組むうちに、より一般的な哲学的問い、たとえば狂気や老い、さらには芸術作品の存在論などに関心を持つようにもなりました。
 狂気や老いというのは、たとえば、統合失調症における妄想形成や、老年における痴呆が、私たちが持つ諸観念やその連合のある種の解体的様相であるのとまったく同時に、偽なる諸観念やその連合をつくりあげることで、解体に抗い持ちこたえようとする行為でもある、といったようなことです。芸術作品の存在論というのは、たとえば、絵画の形態は、描かれるべきモデルの描かれたコピーであるのではまったくなく、物質からなるこの世界の「見えvision」がそうであるように、それ自体が物質の重ね合わせから出来する自立した「見え」である、といったようなことです。つまり、それは見えの二次的な写しではなくそれ自体が見え「である」、といったようなことです。
 さらにつけ加えると、現在、これら狂気、老い、芸術に共通する偽なる凝集力について、それがもたらすかもしれないしもたらさないかもしれないある種の社会的共同性の可能性を念頭に、「仮構作用」(ベルクソン)という概念を中心に据えて考えています。たとえば、痴呆の祖父が、愛していた孫を、まったくの他人だと確信し、孫であることを永久に忘却して、他人として語りかけるとき、そこにはどのような社会的共同性が生起しているのでしょうか。それは孫に対する裏切りでしょうか、それとも、もはや他人でしかなくなった誰かへの連帯の合図でしょうか。孫は、忘却を嘆き、老いを恨むことしかできないでしょうか、それとも、この合図を受け取り、それに相応しい者になることができるでしょうか。ここには「来るべき民衆」(ドゥルーズ)の問題が賭けられています。
 こんなことを、埃まみれの部屋に閉じこもって咳をしながら考えています。

私にとっての超域とは?

 アウグスティヌスは『真の宗教』のなかで「外へ出ていくな」と言っています。被造物の世界をいくらかけずりまわっても、そこに神への道はない、超えていくことはできない、ということでしょうか。たしかに、すでに展開されている可能な選択肢をフットワークよく踏破し、その可能な組み合わせに習熟したとしても、結局は可能なことしか私たちは考えていませんし、行っていません。何かを超えていくには、このような可能なものと手を切ること、そこからみずからを閉ざすこと、それらを消尽することが必要なのかもしれません。私にとっての超域は、もしかしたらそういうものなのかもしれません。

超域生の声

 僕は学部生の頃に当時小倉先生の所属していた現代思想研究室で行われていた読書会に参加していて、それからずっとお世話になっています。当時から複雑なテクストから明確な論点を切り出していく小倉先生(当時は「小倉さん」でしたが)の能力には舌を巻いていました。このような能力は口頭での議論や社会的な問題を考察する際にも欠くことのできないものです。外から知識を当てはめるのでなく相手の懐に入って議論を解きほぐす姿勢からは、超域生も多くのことを学ぶことができるでしょう。

2015年度生 福尾匠さん

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「精神とは複数の眼を持つ獣である」(ドゥルーズ「恥辱と栄光」)。
 飼い馴らされることのない獣であってください。