Activity Reports超域履修生による、ユニークで挑戦的な活動のレポート。

活動レポート
履修生主導型企画 ロシア海外研修<6>
ロシアにおける雑感

2017/6/1

【個人総括告】 飯田隆人 工学研究科

■ はじめに

2016年2月27日から3月5日にかけて、私たちはモスクワを訪れた。文学や法学、理学に工学、経済や言語といったてんでバラバラな専門を持つ博士後期課程の学生18名に、現代思想の哲学者である檜垣教授、そしてJTBの添乗員さんという、なんだか一見よくわからないメンバー構成だ。私たちの共通項は、大阪大学の超域イノベーション博士課程プログラムに在籍しているということだ。本プログラム自体、斬新なものであるが、その中でもこの企画は、学生自身が考案し、幾度となくプログラム責任者を説得し、ようやく実施まで漕ぎ着けた、というかなり”変わった”試みである。何を隠そう私も企画メンバーの一員であり、一年に及ぶ企画の準備と交渉は、修士論文の執筆に勝るとも劣らない、苦労の連続であった。

それはさておき、本稿は、私自身がロシアの地にて感じた事を綴ったものである。本稿を通じ、読者になんらかを考える契機を与えられれば幸いである。

■ ロシアという国

空港につき、ハイウェイに乗り、まず気が付いたのは外灯の多さである。ハイウェイを誘導するように、ぎっしりと、等間隔に果てしなく続く外灯は、ロシアが如何にエネルギー資源を有しているか、ということを誇示しているようである。市内を地下深く走る地下鉄も御多分に漏れず、エスカレータを沿うランプ、駅の天井には大きなシャンデリアがあり、外にいるよりも明るく照らされている。ホテルや美術館、すべての建物はセントラルヒーティングされており、とても暖かい。節約という考え方などないかのように、エネルギー資源がふんだんに使われている。エネルギー資源に乏しい日本にいる私たちは、日々節電、省エネを心掛けねばならない。しかし、ロシアでは違う。外灯の多さ、たったそれだけのことで、日本とロシアは大いに異なるということに気付かされた。

2月27日、モスクワ市内は想像していた通り、雪が積もっていた。想像と違ったのは、マクドナルドやスターバックスなどの外資系チェーン店、いわゆる“アメリカ的なもの”が普通に存在していたことだ。私たちは小学校の時に社会科の授業で、西と東、アメリカとソ連という二項対立の構図を習ったように思う。ちょうど私たちが生まれた年にソ連は崩壊したため、実際はどうだったのかわからないが、なんとなく、アメリカとロシアは相容れないものと感じてきた。マクドナルドを見たときに、なんだ、あるじゃないかと、自分の持っていたステレオタイプの的外れさに笑いが込み上げてきた。しかし、よく見ると、McDonald’sではない。Макдоналдсである。マクドナルドもスターバックスも、すべて英語ではなく、キリル文字表記になっている。日本や、ほかの国へ行っても、店名は英語だったと思う。しかし、ロシアではキリル文字に変えられている。資本主義経済として受け入れざるを得ない部分と、それでも受け入れられない部分のせめぎあい、それを感じずにはいられなかった。なぜそうなっているのか、真相は定かではないが、ある種の“ロシアらしさ”を発見したような気がした。

ところで、ロシア人の店員さんは、とても無愛想だ。一切笑顔は見せないし、ぶっきらぼうに接客してくる。身体もごつくて、表情は冷たくて、なんだか怖い。ロシアに来る前にイメージしていたロシア人像とぴったりだ…、もし私がなにも勉強せずにロシアに来たら、そう感じていたかもしれない、実は、ロシアでは初対面の人に笑顔を見せてはいけないらしい。歯茎を見せて笑うのは、馬の顔といって、失礼にあたるそうだ。(ちなみに、本格的に打ち解けるためには自宅に呼ばれてウォッカを一緒に飲む必要があるらしい)。それは礼儀であり、ロシア人は決して冷たいわけではない。実際、ロシア連邦直下のFinancial Universityへ訪問し、ワークショップを開催した際には、すべての食事をごちそうになったり、コンサートや劇場への招待を受けたりと、かなり手厚い歓迎をうけた。ロシア人は共同で生活していくという認識が強いらしく、よって人に対して思いやりがあり、ホスピタリティにあふれているそうだ。

ロシアという国は、私たちの国とは“異なる”。ロシアにきて分かったことは、その異なる背景には、合理的な理由があるということだ。私たちは得てして、自分たちとは異なる行動をする他者に対し、薄気味悪く思いがちである。しかしそれは、自分たち自身の背景、文脈から相手の行動を推し量ろうとするからではないだろうか。相手も人間であり、私たちがそうであるように、彼らは自身にとって合理的な判断を下している。ただ、その文脈が私たちとは異なるだけだ。相手がどのような理由で、そう判断をしているのか、その価値観の背景を知ることが、他者を理解するためには必要だろうと感じた。それは、文化や伝統、歴史かもしれない。いずれにしても、その文脈を絶えず学び、そしてその合理性を考え続けることが、“異なる”他者、とりわけロシアのような大きく“異なる”ように見える人々と、うまくやっていく上での大切なことではないだろうか。

■ ロシアと日本の関係

本企画は、大きく分けると2種類のパートによって構成されている。ひとつは、超域プログラムの履修生として、研修員全員が学ぶ必要があることと位置付けられた全体ワーク、もうひとつは、それぞれが博士課程の学生として、各々の興味関心に合わせたテーマを少人数単位で学ぶグループワークである。

全体ワークの一つとして訪れたのが、在ロシア日本国大使館である。ロシアと日本の関係を、日本側の立場から伺うのが目的である。余談ではあるが、ロシアでの研修を企画する際に、一番苦労したのが、アポイントメント取りである。超域プログラムには、ロシアに明るい教員はいなかったため、私たち企画者自身ですべての行き先を探さなければならなかった。ロシア語専攻の友人から話を聞いたり、ロシアに詳しい先生を探したりと、まさに手探り状態である。ロシアは日本と同じように、英語はほとんど使わずに生活しているため、インターネットで検索しようにも、ロシア語のホームページしか出てこない。そんな状況で、大使館という存在は非常に心強かった。私たちが学びたいと考えた一つのテーマである、ロシアと日本の関係の専門家であるし、様々なパイプも持っている。そしてなにより、日本語である(誤解のないようにしたいが、企画者の中で英語ができないのは私だけである)。突然のメールにもかかわらず、大使館には快く快諾していただけた。大使館への訪問が具体的なワークとしては一番初めに決まったものであり、随分ほっとしたことを覚えている。

大使館に訪問した日は、雪こそ積もっていたものの、そこまで寒くはなかった。地下鉄を乗り継ぎ、まるで小学生の遠足のように、ぞろぞろと大使館まで歩く。ゲートでボディーチェックと身分証明を済ませ、敷地に入ると館員が笑顔で迎えてくれた。応接室に案内され、中に入ると館員が数人待機していた。経済部と政治部から、それぞれ数人ずつ、お忙しい合間を縫って対応してくれるらしい。檜垣教授が表敬訪問を終え、さっそくお話をお伺いする。ロシアの情勢や、大使館の仕事内容など、幅広いトピックを聞くことができた。

その中でも印象に強く残っているのは、日本とロシアの関係への見方である。曰く、「日本とロシアの関係は対立ではなく、補完関係にある。例えばロシアは資源大国であり工業製品に弱い、日本は工業製品に強く資源に乏しい。お互いの利益は実はバッティングせず、どちらかがいなければ成り立たないような関係にある。だから、共存共栄できるのではないかと思う。」この言葉に、私は目から鱗が落ちたような気がした。いままでロシアは日本とは“異なる”国だという認識はあったが、それが日本との関係にどう影響を及ぼしていくのか、までは考えに至っていなかった。確かによく考えてみると、互いの強み弱みがてんで逆であり、互いを補うような関係性にあることに気付かされる。とりわけ経済面においては、大いに協力し合えるのではないかと思えてくる。

現在、大使館は日本の中小企業をロシアに誘致しようと取り組んでいる。その手続きや未知さなどの物理的、心理的障害の大きさから、なかなかロシア進出は二の足を踏むことが多いらしい。たしかに東南アジアなどと比べ、メリットを目に見える形で提案しづらい面もあるだろう。しかしながら、ロシアにはそういった発展途上国にはない魅力、豊富なエネルギー資源や宇宙開発やITなどで培われた、一つの分野に特化した技術力が内在しているように思える。

ロシアと日本はまだまだ経済的繋がりが弱い。さらに館員が述べられたのは、そうした経済的な結びつきの弱さが、政治的な交渉の脆弱さにも繋がっているということだ。政治や安全保障において、相手の譲歩や妥協点を引き出すためには、日常的に経済の協力関係を構築することは不可欠だ。その観点から見ても、ロシアと日本の経済関係を、よりよくしていく必要があるだろう。互いにずぶずぶと依存してしまうのは望ましくない。しかしながら、ときに助け合い、またときには戒めあえるような、適度に距離を保った関係を意識することで、経済でも政治でも、私たちは良い隣人となり得るのではないだろうか。

館員への質疑応答も終盤に差し掛かったころ、私は「隣国であるロシアと、今後どう付き合っていくべきでしょうか」という質問をした。すると、「逆に、どうなっていくと思う?それを考えるのがこの研修の趣旨ではないか」と至極ごもっともな返事が返ってきた。この問いに正解はない。そうした中で解を模索し、折り合いをつけていくこと、それが超域プログラム履修生のもっとも重要な使命であり、次世代を担う私たちに求められるものであることを再認識した。

隣国同士が仲良く出来ないのは歴史の常であるが、大使館への訪問で感じたのは、ロシアと日本というピースがカチッとはまる可能性は、実は十分あるのではないかという期待感である。もちろん、ロシアはいわゆるアメリカ的イデオロギーとは異なるゲームをプレイする国であり、私たちがさらっとルールを理解し、参加できるほど容易な国ではない。一筋縄ではいかないであろう。私たちはまだまだロシア、世界のことを知る必要があると感じた。

■ 自由とは何か

マキシム氏は、ロシア科学アカデミー民俗学研究所の研究員である。私たちは、全体ワークの一つとして、ロシア人から見たロシア像を学びたいと考え、彼に講義を依頼した。非常に親切な方で、わざわざ私たちの滞在するホテルまで出向いてくれた。マキシム氏はモスクワで経済学の修士号を習得後、北京の大学で民俗学の博士号を取ったという経歴を持つ。自身のロシア人としての視点、外(中国人)からロシアを見る視点、それらを研究者として客観的に見つめる視点、中国での長期滞在の経験から、複眼的な切り口でモスクワ・ロシアを紹介してくださった。ロシアで流行る音楽や映画の特徴や、男女の結婚観の違いなど、身近な例を取り上げて、そこに潜む背景を分析していく。

マキシム氏曰く、ロシアを理解するうえで重要な価値観の一つは“自由”であるらしい。ロシア人は“自由”を求める。この文脈における“自由”とは、“freedom from”、誰かに縛られないこと。国家からの自由、権威からの自由、労働からの自由、妻からの自由。なにものかによって自分を制限されることからの解放である。それは、確かにある時代のロシア諸国の人々にとって大きな力となってきたように思う。全体主義国家の暴力による労働支配、独裁体制…アヴァンギャルドに代表されるようなロシア芸術は革命の象徴であり、民衆を自由へと大きく突き動かした。現在、ロシア人は自己を実現する“自由”を持っていない、とマキシム氏は言う。抑圧から解放された後、何をなすべきかわからない、それが問題であると。ソ連時代、確かに国民は監視され窮屈な暮らしであったが、宇宙開発や軍事面ではアメリカと肩を並べる“偉大で強い祖国”であった。しかし、いまはそうでなはい。大使館訪問の際にも、ロシアはいま自身がどこへ向かっているのか、もしかしたらわかっていないのではないか、との指摘を受けた。おそらくそうなのであろう。“自由”になったいま、なにかに向かっていけるような強い目標が、ロシアにとって必要なのかもしれない。

実はこの話を聞いたとき、2015年3月に超域プログラムのフィールドスタディで行った東ティモールを思い出した。東ティモールは、16世紀にポルトガルに植民地にされたのち、オランダやオーストラリア、日本やインドネシアに代わる代わる占領され、2002年に独立するまで、およそ500年余りも他国に支配されていたのである(なお、東ティモールは21世紀最初の独立国である)。そんな中、彼らの中に芽生えたのは“to resist is to win”という精神である。歴史を鑑みると確かに東ティモールとは抵抗の歴史であった。ポルトガルやオランダの植民地支配、インドネシアの占有、その中で、彼らは民族としての愛国心をふつふつと燃え上がらせてきた。まさに“freedom from”である。その存在が消えた今、誰にも抵抗することはできない。自分たち自身で未来をつかみ取っていかなければならなくなっている。私はフィールドスタディを終えたとき、彼らは現在の自分たちがどうするべきなのかを考えられず、将来像がひどく漠然としていて、他人任せであるように感じていた。

しかし後からよくよく考えると、これはロシアや東ティモールだけではない。戦後、日本は国民が一丸となって焼け野原から復興した。この経済成長における東洋の奇跡は、敗戦という苦しみがあったからこそなし得たものであろう。この苦しみを脱した今の私たちに、これほどのモチベーションは存在しない。

もしかしたら、時代の流れを築いてきたのは、私たちを抑圧するもの、そこから“自由”になりたいという、強い想いなのかもしれない。なにからも縛られず、なにをしても良い、国民全体に押し付けられた“自由”は、私たちを逆説的に縛り付けている。現在、プーチン大統領への支持率は70パーセントを超すらしい。この“強いリーダー”への求心は、自分で“自由”に選択するのではなく、だれかに決めてほしいという、“自由すぎる不自由”からの“自由”の表れなのかもしれない。おそらく、これから先、自身の意思で方向性を示し、民衆を引っ張る“強いリーダー”が台頭してくるのではないだろうか。

■ 芸術とその力

本企画のひとつの目玉は、それぞれの興味に則った活動を少人数でする、グループワークである。産業に興味がある、教育や多文化共生に興味がある、そういったそれぞれの関心から、自分たちで行き先や行うことを企画し、アポイントメントを取り、活動を行う。なかでも、私のロシアにおける関心は、芸術にあった。

私は芸術とは、論理性や整合性とは対極に位置するもので、ひどく曖昧で、多義的なものであるように感じる。そして同時に、それこそが芸術の魅力であり、科学にはない力であると考える。ロシアにおける芸術は、この“芸術の持つ力”が最大限に発揮された好例であるように思う。例えば停滞の時代におけるロシアでは、ブレジネフの下、政府の要求にこたえるための社会主義リアリズムのみが公式芸術として認められており、それに迎合できない芸術家たちは非公式芸術家として扱われ、時に弾圧され、逮捕、投獄といったことも稀ではなかった。そんな中、彼らは“内的自由”や純粋な芸術衝動のためだけに表現し続け、多くの人々が彼らを支持していた。またロシア・ルネサンス期においては、多くの者が芸術の目的は現実世界の表現でなく変革であり、社会問題も芸術により解決しようと熱中した。このように、芸術という、ある種の論理を超越した力の根源を、知りたいと考えた。

グループを決める当初、芸術に関心のある学生は7人いたが、お互いの興味が少しずつずれていることから、2つの班に分かれることにした。一方が芸術と教育の関わりと社会実践を学ぶグループ、もう一方が芸術作品自体の持つ価値を学ぶグループだ。私はほかの学生二人とともに、後者のグループを結成した。のちに檜垣教授も加わり、4人で行動することとなった。

私たちは、芸術とはなにかを理解するために、芸術を鑑賞する、芸術を創作するという、両方向からのアプローチをとることにした。芸術を鑑賞する場としては、芸術の都として知られるサンクトペテルブルクを選んだ。さらに、創作活動としては、日本の伝統芸術である短歌を詠み、連作短歌集として制作することにした。活動の媒体として短歌を選んだのは、ひとつはメンバーの一人が短歌会に所属する歌人であったこと、さらに日本の伝統的なフレームワークでロシアでの体験を詠むことの“超域性”が面白い試みであると感じたことが理由である。

モスクワから飛行機で2時間ほど、私たちはサンクトペテルブルクに降り立った。海沿いにあるサンクトペテルブルクは、モスクワよりもずっと寒く、シンとした空気で張りつめていた。川や海は一面凍っており、ロシアの冬の厳しさをまじまじと思い知らされる。私たちは、世界三大美術館のひとつであるエルミタージュ美術館、世界最高峰と評されるマリインスキー・バレエ、また国立ロシア美術館や血の上の救世主教会といった、まさに世界に名高い芸術と呼ばれる作品を鑑賞することにした。

サンクトペテルブルクでは、美術品はロシア人画家とそれ以外で分けられている。ロシア人画家の作品を展示しているのがロシア美術館、世界各国の美術品を収集しているのがエルミタージュ美術館と、すみ分けがしっかりとなされている。エルミタージュ美術館は、展示されている作品群も然ることながら、建物自体もエカテリーナ2世らが実際に使用していた宮殿でとても美しい。世界遺産に登録されており、ただ歩き、あたりを見回すだけで、いくらでも時間を費やすことができる。一方、ロシア美術館は、日本でも愛好家の多いイヴァン・アイヴァゾフスキーの海の作品が多く展示されており、その技巧と表現のすばらしさに感嘆するばかりである。また、血の上の救世主教会は、ロシア正教ならではの外観や、内装いっぱいに敷き詰められたモザイク画が目を引く。正教特有のイコン画もあり、ヨーロッパで見る教会とは異なったキリスト教を見ることができる。

これらに訪問したあと、率直に感じるのは、私はその大部分においてまだ“芸術の力”を受け取るステージに立ててすらいなかった、ということだ。エルミタージュ美術館にある絵画はほとんどが西欧のキリスト絵画や歴史的な場面や人であり、絵画の中には月桂樹や天体球など、象徴的なアイコンが描かれていることもある。例えば樫の枝は権威の概念であり、それゆえルドルフ二世が描かれているらしい。私は新旧聖書も読んだことがないし、歴史も詳しくない。ある絵画が聖書の場面やシンボルを描いているのだとしても、それがなんの場面なのか、誰が描かれているのか理解できない。したがって、その絵がどういう背景の元に描かれたものなのか、なぜ評価されているのか、わからない。その状況で、この絵はなんかかっこいいとか、なんとなく好きだな、というのは、芸術を芸術として感じ取っているとは到底言えないだろう。

一方、イヴァン・アイヴァゾフスキーの作品を鑑みると、キリスト教絵画に感じたのと反対の想いを抱く。彼の海の表現はとても写実的である。「第九の波涛」という作品は、おそらく大波によって転覆した船と投げ出された人に追い打ちをかけるように、9番目の大波が襲い掛かる、非常に迫力のある作品である。私個人が海を好きなのはもちろんあるが、なぜこれが世界でも日本人にばかり好かれるのか。それは、古来より日本人が海と密接にかかわってきたことに由来すると思う。人を生かすだけでなく、時に猛烈な災害となって襲い来る“海”という存在。それを知っているからこそ、彼の作品は日本人にとって特別なものなのであろう。ほかの画家の海の作品と比べ、彼の作品が評価される理由、それは単に卓越した技法があるだけではなく、“海”という存在への感情が、日本人にとってのそれと近かったからではないか。だからこそ私たちはそれを感じ取れたのではないか。逆に言えば、彼の作品を感性として“受け取る”、そのためには彼の表現したかった“海”という文脈を私たちが“知っている”必要があるのではないか。

美術館鑑賞を経て感じたのは、“芸術の持つ力”とは、自分の中に内包する本能、知識、経験といった多義的であいまいな情報の上に成り立つものであり、それの広がりが前提として必要ではないかということである。そういった意味で、マリインスキー劇場でみた白鳥の湖は、事前にストーリーをきちんと予習していったため、非常に面白いものであった。一方で、バレエの作法を知らないため、まだまだきちんと受け取る土台には至っていないともいえる。それでも、こうした経験の積み重ねが、“芸術を感じる力”に繋がっていくだろう。

芸術鑑賞と同様に、私たちが力を入れたのが、短歌集の制作だ。私たちは、ロシアでの研修で見て、聞いて、体験したこと、それらを私たちのこれまでの知識、経験を結び付け、それを新たな形として創り上げた。歌集には、血の上の救世主教会から「オン ザ ブラッド」と名付けさせてもらった。その中で、いくつか日常では意識しないような面白い経験ができたように思う。例えば、思い描いている感情を、それを表す言葉にうまく落とし込めず、少しニュアンスが異なる言葉を選んだだけで短歌の意味がまったく変わってしまうことがあった。日本語や表現の繊細さに驚くとともに、一方ではその予期せぬズレにより、思いがけず広がりのあるストーリーが生まれることもある。それにより感情を言葉に落とし込んでいるはずが、言葉が感情を変容させていく。また、創った短歌を詠むと、人によって解釈がまったく異なることもあった。みな、それぞれのこれまで生きてきた経験に結び付け、自分にとっての解釈を下していたように思う。

芸術とは、そうした表現したものと表現されたものの位相のズレ、製作者と鑑賞者のズレ、そうしたあいまいさを許容しながら、広がりを見せていくもののように感じた。そうであるならば、時代を動かしてきた芸術とは、芸術自体が時代を動かしたのではなく、人々の感情が芸術作品という媒介に乗り、時代を動かしていったのではないだろうか。つまり、“芸術の力”とは、“人々に内在する力”であり、芸術作品とはその“依代”なのかもしれない。

最後にロシアでの経験を、この短歌で締めくくりたい。

 

自由とは縛れぬことと定義せしロシアにおけるわたしは“わたし”
「オン ザ ブラッド」より

 

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