到着初日のUBC学生によるオリエンテーション

2. 同質であることの楽しさ、異質であることの楽しさ

 バンクーバーの人々と話していると、趣味や休日の過ごし方など、日本人だったらわざわざ聞かないようなことについて、「質問が多いなあ」という印象を持ちました。しかし、単純とも思えるような質問に繰り返し答えていくことで会話にリズムが生まれ、気が付けば良いコミュニケーションが取れていたように感じます。普通に思えることをわざわざ尋ねる人々の様子から、「カナダ人」のルーツは様々であり、他者が異なる文化を持っているということが、カナダ社会の前提となっているように思いました。だからかどうかはわかりませんが、カナダで話した人々は異質である他者との対話に優れていると感じました。

◆日本人の印象とは?

 バンクーバーでの生活の最後に、授業を担当していた教員1名と授業でゲストとしてUBCの紹介を行った学生1名にインタビューを行いました。目的は私がカナダをさらに知ろうとしたためであり、私が強く関心を持っていた、カナダの人々のキャリア観や教育についての話題が中心となりました。しかし、その中で特に印象的であったのは「日本人」についてでした。

教員:多くの学生と接してきて、日本人はシャイであるという印象を持っている。いや、日本人がシャイというのはしばしば言われていることだと思うけれど、おそらく一般の人がイメージする「シャイ」とは異なると思う。日本人は「ウチとソト」という2つの顔を持っていて、まったく印象が異なる。ウチの中では非常にフレンドリーで明るく積極的に話すのにも関わらず、ソトに対しては急に消極的になり、発言の機会が減る。私はシャイというのは本来の性格であると考えているので、ウチでもソトでもシャイな人は「シャイ」だと思っているが、日本人はウチと比較してソトに対して極端にシャイだと思っている。昼(ビジネス)の顔はロボットみたいに無表情なのに、夜の顔(プライベート)は生き生きとしていて、極端に異なる気がする。

学生:日本人は「合わせる」ことが好きだと思う。ELIでもお揃いのアクセサリーや服を買って身につけるという様子が見られるし。それは特に悪いこととは思わないけれど、カナダの人々だったらやらないなと思うことはある。「仲間意識」がとても強く、同じであることを楽しむ文化だと思う。対照的にカナダではみなルーツが異なるので「同じである」要素が少ない。正直に言うと、文化的背景からくるであろう違い(例えば日系は時間に厳しいとか)にイライラすることはあるけれど、違いを楽しむことができなければここでは生活できない。だから私は、日本人は同じことを楽しむことが得意で、バンクーバーの人々は違うことを楽しむのが得意という感覚を持っているのかもしれない。

◆同質的な日本人

 なぜ2名のこれらの発言が印象的であったかというと、バンクーバーでの生活において私自身が違和感を覚えていたのもこの日本人の同質性であったためです。授業では、約20名のクラスのメンバーが3〜5名程度の小グループにわかれ意見を交換する機会が多々ありました。教員はしばしば「自由に」メンバーを組むことを指示しましたが、似たようなバックグラウンドでのメンバーで集まることが固定化していました。クラスにはカナダやブラジル出身の学生もいましたが、「なぜ皆はいつも同じメンバーで集まろうとするのか」との発言も耳にしました。

授業後に学生でUBC敷地内にある海岸へ

◆日本人は「社会」に無関心?

 2名のインタビューと自らの体験からは、(1)同質性を楽しむ日本人、(2)仲間意識のあるウチとその他のソトを明確に区別する日本人、という姿が浮かんでくるようでした。作家の鴻上尚文氏は著作の中で日本人におけるウチのことを「世間」、ソトのことを「社会」と呼んでいます。

 西欧において社会とは個人の集合体である。つまり、1人1人の個人は社会の構成物であり、社会の発展とは個人の確立に拠る。一方で日本においては「社会」とはソト、「世間」というウチ以外の世界のことを指している。日本における「個人」は「世間」に埋没しているのであり、西欧における確立された個人とはまったく意味が異なる。日本人は「世間」に対する意識が強く、世間のソトにある自分とは異質な者達が集まる「社会」には無関心である。
 例えば電車の中で親子連れや老人に構わず仲間のために必死に席を確保するおばさんがいる。おばさんは社会というソトから見たらマナーが悪いのかもしれない。しかしウチである世間にとっては仲間思いのいい人なのである。

 『おばさんは、自分に関係ある世界と関係ない世界を、きっぱりと分けているだけです。それも、たぶん無意識に。(中略)おばさんは「世間」に関心があっても「社会」には関心がないのです。関係のない世界だから、存在しないと思って無視したのです。』 

鴻上尚文,『「空気」と「世間」』,2009, 講談社より。
※『 』内は本文より引用、その他は筆者による要約

 このように鴻上氏は「世間」「個人」「社会」という言葉を使いながら、私が感じた(1)同質性を楽しむ日本人、(2)仲間意識のあるウチとその他のソトを明確に区別する日本人、という2点について巧みに解釈しています。

休日にバンフ国立公園へ

◆「超える」とは社会へ踏み出すこと

 さて、鴻上氏は結論として「「社会」と対話できる「個人」になろう」と呼びかけています。ウチである「世間」では同質の人間が集まりやすくなるため「空気」を読んだり、暗黙の了解があったり阿吽の呼吸があるでしょう。そして、それが成立することで結束の強さを確認し、楽しむことができるかもしれません。しかし「社会」ではそれは成立しません。「社会」は自立した「個人」の集まりであり、同質な人々が集まる空間ではないと述べています。「社会」との対話とは同質的でない、自分と関係の薄い相手に対し、必要な情報を提示し、わかりやすさに配慮しながら自分の意思を伝えるということです。

 「超えることでしか生まれない」。これは私たちの所属する超域プログラムのキャッチフレーズです。カナダから帰国した今、「何を超えるのか」と問われれば、「世間を超えたい」と答えるでしょう。まず自分の研究をしっかり行い「個人」を確立させる必要性があります。そして「社会」に生きる自分とは領域の異なる、同質的ではない他者に対し、自分の意思を適切に表現することで新たな可能性を模索したいと思います。

 「違うこと」を楽しめる、すなわち「社会」との対話に優れた人々がたくさんおり、その魅力を街で、家庭で、学校でふんだんに体感したサマースクールでした。

休日に訪れたバンフの街並み

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