■熱量から適切な距離をとること

 さて、誕生と淘汰が繰り返される地下アイドルたちは、有象無象に消えていかないために、マスメディアとは異なり「何をやってもよい」場となることで、その独自性を強化してきた。自由に活動をできる場となった地下アイドルの現場は、新規に参入する自由なクリエイターたちによる実験や挑戦的なプロジェクトがごった煮状態になることで、カルチャーとしての雑多さ、アングラな性格を強め、BiSやゆるめるモ!、BELLRING少女ハートなど、従来の「アイドル」の枠に収まらない「楽曲派」や、奇矯なパフォーマンス、過激な炎上マーケティングをおこなうアイドルたち、そして、それに随伴するコアなファン層を生み出すこととなった。この過剰さは地下アイドルが人々を惹きつける大きな要因の一つであることは間違いない。

 ただし、規模が拡大していくにつれ、そのエネルギーを制御していく必要がある。アイドルの現場は大学内外で学ぶことができるビジネスモデルのクリーンな見た目とは裏腹に、身も蓋もなく人々の「欲望Desire」と関わる。そこには、しばしば大学内で提案されるソリューションとは異なり、様々なかたちで過剰さが入り込む。会いたい、触れたい、見られたい。近接的効果によって、加速させられる承認の欲望は、演者、観客、運営全てを巻き込みながら膨張していくが、その過剰さはときに暴力的でありうるほどである。このようなイドラの暴力的力を創造性として保つために、細やかな配慮を持ったマネージメント、関係構築が必要となるのだ(濱野氏は自身の細やかなマネージメント的観点の欠如を、自身のプロジェクトの「失敗」の大きな要因としていた)。また、受講生のコメントには、演者を暴力の対象として表象することに対してジェンダー論的観点から批判するものがあったが、業界の外部であるからこそ持ちうる視点は存在する。実際、増殖した有象無象のアイドルビジネスによる様々な形での搾取を前にして、アイドル現場の力を手放しに称賛することはできないだろう。大学から現場へ、現場からプロデュースへ、そして、プロデュースから大学へと、現場の熱狂に入り込みつつも、複数のメタ視点をたどることが必要なのだ。

 熱気から距離を取ることは単に制限し、縮小せねばならないという話ではない。渡辺氏によれば1000人規模まではコア層が重要であるが、それ以上の規模になってくるとコア層はむしろ新規参入を妨げる壁になってしまうのだという。ある意味で、古参として支えてくれたラディカルなエネルギーが邪魔になり、リフト(客席でパフォーマンスに呼応して人を担ぎあげること)やMIXといった過激な活動を禁止するなど古参切りをおこなっていく必要が出てきてしまう(例えば、Perfumeは地下アイドル時代を経由し、MIXを禁止することで今に至る)。周知の通り、トップアイドルたちの楽曲、パフォーマンスは、往々にして著名な一流のアーティストによって作成されたものであり、数多くの人へアクセスするためには、洗練性とポピュラー性の両面が必要である。もしアイドルたちが地下から地上へ向かおうとするならば、純粋に地下で培った先鋭的なエネルギーから一旦距離をとり、メジャーな性格を混ぜ合わせていく感覚が必要となるのだ(これに専門性と汎用力という超域的人材像についての議論を重ね合わせることは難しくはない。ゆえに、その専門としての先鋭さ、マイナーなものの雑多さのなかで育まれる感性をいかに保つのかを絶えず心に留めておく必要がある)。

講義二日目、大阪に向かう直前の渡辺淳之介氏(中央)と履修生、講師、引率教員

■おわりに 超越なき時代の幸せのありか

 アイドルへ没頭する人々のあり方は、経験から抽出される一般知へ向かうベーコン的態度とは異なる。アイドルオタたちはあくまで様々なアクターが織りなす効果から浮かび上がってくる個別的かつ特異的な存在を愛するのである。それゆえ、アイドル=偶像(Idol)について語ることは、興味のない人から見れば奇妙な信仰告白のようなものにしかみえないかもしれない。ハマった人間もふと我に返った瞬間にバカじゃね?と思うかもしれない。しかし、アカデミーの内側からは「幻影Idola」でしかないかもしれない「偶像Idol」への信仰告白を介して、われわれは一般化し難い特別な存在に、「そのあまりにも、超域的で、超越的であり、イノベーティヴな存在」に出会い直す。 

 こういってよければ、特別な存在となったアイドルは「幸せ」の体験を与えるのだ。濱野氏は初めて握手会を訪れた際に、ブースから出てくるファンの顔が皆一様に幸せそうな顔だったことに衝撃を受けたという。「幸せな生活とはあなたを求めて、あなたによって、あなたのために喜ぶことである。これが幸せな生活であって、この他には幸せな生活は存しない」。古代キリスト教の教父、聖アウグスティヌスは自身の改心の経験を告白するなかで幸せな生活は物体ではないと述べていた。ある特別な存在を求め、そのために喜びを得ることこそが幸せだというアウグスティヌスの言葉は、現代のモノに溢れた時代に生きるわたしたちにとっても一定の説得力を持っているのではないだろうか。

 ただし、ここで先の引用中の「あなた」とは、つまり他の存在者から極限まで際立った超越的存在としての「神」である。聖アウグスティヌス、そして神学者でもあったベーコンは、凡庸な被造物から圧倒的に際立つ神の存在を素直に信じることができた。言い換えれば、彼の時代には、存在するだけでそのために生き、そのために喜び、日常を幸せな生活に変えてくれる超越的存在が自明のものとして共有されていた。しかしながら、現代の少なくない人々は、神のような絶対的に超越的な存在が不在の世界を生きている。価値の多元化した社会において、文字通り「すべての」人々にとって特別な存在を復活させることは不可能であるし、そのような理念はあまりに粗すぎる。

 それゆえに、多くの人にとってありふれた存在を(が)、「誰かにとって」特別な存在にする(なる)ことこそが、超越なき時代に生きるわれわれにとってリアルな課題となる。絶対的な超越者でないからこそ、アイドルと観客との関係は一方的ではなく双方向的に幸せを与え合う可能性をもつ。そして、モノとコトが絡み合う「現場」は様々なアクターが出会い、イノベーションを起こすプラットフォームともなりえるのだ。ありふれたものを、少なからぬ人々が熱狂し惹きつけられる「アイドル」(ここにはあなたにとって特別なものを代入してほしい、「アイドル」は何にでもなるのだから)に変容させるイドラ的クリエイティヴィティを学ぶ必要があるというのは言い過ぎではないだろう(例えば、近年盛んな地域おこし、コミュニティデザインといった場面でも、ありふれたローカルを誰かにとっての特別へと反転させる地下アイドル的発想が求められるはずだ)。今回の講義を通して少なくない超域生たちがアイドルに魅入られ、各々の信仰を吐露するように感想戦をおこなっていた。彼/彼女ら自身がこれから先の各々の舞台を楽しみ、演じ、人々を惹きつけるアイドル/プロデューサーというプラットフォームとなる。イドラに魅入られた彼/彼女らの姿にそんな奇矯な未来を垣間見た。

豊中懐徳堂での「・・・・・・・・・」グループ公開講義の様子

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