Texted by 大阪大学大学院文学研究科(超域2014年度生)関屋 弥生

●はじめに

 超域2014年度生は2チームに分かれ、東ティモールブータンにて海外フィールド・スタディを実施しました。本記事は、ブータンでの研修にて行ったフィールドワークについて紹介するものです。
 ブータン滞在中の2日間、CNR(College of Natural Resources:ブータン王立大学農業カレッジ)の学生と一緒に農家を訪問しフィールド調査を行ないました。フィールド調査では、既にそこに存在するものの、見過ごされていることが多い「価値あるもの」を探す、「あるもの探し」を行いました。私たちが訪れたブータンの農村(テマカ村)では、バーターシステムと呼ばれる物々交換の仕組みが今なお生きており、農村の人々は育てた米を日用品に交換するなどして、生活に必要なものをほとんど全て自分たちで賄って暮らしていました。貨幣経済の枠組みでは捉え切れない豊かさというものが確かに存在するのだということに気付かされると同時に、都会とは異なる農村の暮らしを学ぶことで、これまで「ブータン文化」と一括りにして捉えていた文化にも、多様な側面があることを知ることが出来ました。最終日には、2日間にわたる農家訪問で得られた成果をグループごとにまとめ、CNR学長や教職員の前で報告会を行ないました。

●CNRの学生と一緒にフィールドに出る

 英語とゾンカ語が公用語として用いられているブータンですが、英語教育が導入されたのは1960年代のことであり、それ以前の世代の人々(とりわけ農村に暮らす人々)は英語を話すことが出来ません。そのため農家を訪問した際にも、農家の方々がゾンカ語で話してくれる内容を、ブータン人の学生が適宜英語に直して日本人学生に教える、という形で調査が進められました。
ご飯2  私が訪れた農家は、祖父、祖母、母、男の子、女の子の5人暮らしの家庭でした。日本での居間にあたるような部屋(テレビなども置かれている)で、村のことや家族のことについて住民の方々のお話を伺いました。なかでも、お兄ちゃんの将来の夢が僧侶になることだという話を聞いたときは、感心すると同時に、日本との違いを感じとても驚きました。
 お昼にはブータンの伝統的な家庭料理をご馳走になりました。バター茶と呼ばれる、ブータンでは馴染みの飲み物も出してくれましたが、一緒にいたブータン人学生が、バター茶を飲むまえにそれを少し指先につけて、床にはじいてお祈りをしてから飲むのだと教えてくれました。

 お昼ご飯を食べ終わってからは、隣室の仏間に通されました。ブータンにはどの家庭にも仏間がありますが、そこに据えつけられている仏壇は日本のものと比べると様々な装飾が施されているぶん、かなり色鮮やかな印象があり、また日本のように故人の遺影が置かれることもありません。他の農家では仏壇の前に人の頭の骨が魔除けとして飾られているところもあったそうですが、このように同じ仏教国といっても、日本との宗教作法の違いが至るところで見受けられて大変興味深かったです。
農村1  家の周辺も散策しました。ブータン人の学生に先導してもらいながら坂を登っているときも、うっかり駆け出してしまうとすぐに息が上がってしまうような、とても標高の高い場所に村は位置しています。国土全体がこのように山がちで起伏の激しいブータンでは、山の斜面を利用した段々畑式の農業が一般的には行なわれています。テマカ村もその例にもれず、高所から見下ろすと、密集して立ち並ぶ農家の正面に広大な段々畑が広がっているのが目に入りました。2日目の最後には、農家のお母さんが畑で働く様子を見せてもらいました。延々と広がる段々畑の片隅で作物や飼料の世話をする農家のお母さんの逞しい姿が、今でもとても印象に残っています。

●CNRの学生

 現地のブータン人学生と親交を深めることが出来たというのは、今回のフィールド調査の大きな収穫のひとつだったと思います。CNRはブータン王立大学のカレッジのひとつです。フィールド調査の前後に、CNRの学舎を訪れる機会が数回ありましたが、農業専門学校だけあって、校舎の門を出たところに学校所有の畑や畜舎があるなどとても特徴的なつくりをしています。鮮やかな装飾が施された木造校舎の前では毎週朝礼が行なわれており、私たちも初日に少し参加させてもらいました。学長の短い話のあとでメディテーションの時間が設けられており、超域履修生たちは戸惑いつつもブータンでの学生生活を体験する良い機会になりました。年齢層は幅広く、私たちとそれほど変わらない年齢であっても、既に結婚して子どもがいる学生がいたりするなど、日本の大学との違いを感じる場面が他にも数多くありました。
 農作物などについて非常に豊富な知識を持っている学生が多く、フィールド調査中に一緒に農村を歩いているときも、私たちの知らないような木や植物を指差しては、それが何であるかを丁寧に教えてくれました。国民の多くが仏教徒であるということもあり、ブータン人学生に対しては寡黙なイメージを抱いていましたが、実際に話してみると必ずしもそうではなく、どちらかというと陽気で開放的な学生が多かったように思います。とはいえ、やはり敬虔な仏教徒であることに変わりはなく、普段はふざけて冗談を飛ばしあっているような学生でも、いざバラッカ・ラカン(山の上に建てられたお堂)に入るときちんと五体投地をして熱心にお祈りをする姿が見られました。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA  「ブータン人の仏教に対するこのような熱心さは一体どこから生まれてくるのだろうか?」ブータンに来て以来、日を追うごとにその疑問は強まっていきましたが、その答えの片鱗をラカンで見つけることが出来ました。ブータン人学生が、ラカン内部の壁に描かれた六道輪廻を表す図について私たちに熱心に説明してくれていたときのことです。幼い頃、父母あるいは祖父母から仏画や仏像を見せられながら、仏教にまつわる様々な言い伝えを聞かされてきた彼ら自身の姿が、ふとその場に蘇ったような気がした瞬間があったのです。子どものころから、仏教が非常に身近なものとして生活に溶け込んでいたブータンの人々。私たちが理解する以上に、仏教はブータン人の精神のずっと深いところに根付いているのかもしれません。
4ドネーション  そんな二日間のフィールドリサーチの最終日、村を出発する間際に、ブータン人学生から村の2人の高齢の女性に対して寄付が行なわれました。村での身寄りの無い彼女たちに対し、学生たちが自発的にお金を出し合い、寄付をしたのです。私は直接その場面を見たわけではなかったのですが、なかには途中で泣き出す学生もいたということを後から聞き、ここでもブータン人の心の奥深さを垣間見たような気がしました。

●フィールド調査の難しさ

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 自分の想定だけで物事を見ていると、多くの物事を見逃してしまうかもしれない。そのことを強く意識したのは、農村の方からストゥーパにまつわるお話を伺っていたときのことでした。テマカ村には車が通れるような広い道があり、私たちもその道を通って村に辿りついたのですが、そのちょうど中間あたりの家の前に、人の背丈より少し低いくらいのストゥーパが建っていました。
 日本でいう「卒塔婆」の語源にもなったストゥーパですが、本来は、その中に舎利(ブッダの遺骨)を収めることで、釈迦入滅後に、信者たちの信仰の対象とされてきたものです。そのため、村の中間地点に位置するそのストゥーパを見たときに、私の中では無意識のうちに、〈村人の精神的な拠り所としてのストゥーパ〉というような“想定”が出来上がっていました。しかし、偶然近くに居合わせた農家の方の話をよくよく聞いてみると、そのストゥーパは、実はその前に置かれた平らな石を守る役割を果たしているのだということが分かったのです。
 誰も気にも留めないような何の変哲も無い石でしたが、その方の話によると、石についた“へこみ”がブータンに仏教をもたらしたと言われるグル・リンポチェの足跡であるという言い伝えが残っているそうで、山のほうから村に吹き込んでくる悪い風からその石を守るために、風を遮る位置にストゥーパが建てられた、ということでした。ストゥーパが果たすこのような役割は、舎利信仰の象徴としてのストゥーパという“想定”ばかりに捉われていては、決して気付くことの出来なかったものでした。
Bhutan-916-001  農村では、日本では見つけることのできない(あるいはブータンの都会でも見つけることのできない)様々な新しいものに出会いましたが、「おそらくこういうものだろう」という自分なりの“想定”で見過ごしてしまっていたものが、他にも数多くあったのではないかと思います。新しい物事を見聞きするときに、自分の持っている既存の知識にそれらを当てはめることで、それに対する理解や判断は確かに速くなるのですが、新しい知の発見という意味では、そういった経験的な分類が妨げになってしまうことが確かにあるのかもしれません。実際に共同体の中に身を置くことで、そこで生きる人々の視点を捉え、彼らが自分たちを取り巻く環境をどのように理解しているのかを知ること。フィールド・スタディの難しさと奥深さを知りました。

●報告会にて

 2日間にわたるフィールドリサーチを終えたのち、グループごとに報告会の準備を行ないました。テマカ村で、どんな「あるもの探し」が出来たかについて発表することになっていたのですが、ブータン人学生とのちょっとした解釈の違いに戸惑う場面が何度かありました。例えば、私の班では「food self sufficiency」をテーマに発表を行なうことになったのですが、日本語では「自給自足」と訳されるこの単語について、ブータン人学生との間に、思わぬ解釈の相違があったのです。日本人が自給自足と言われたときにイメージするのは、「自分たちで農作物を育て、それを食べて暮らす」といった程度のものだと思いますが、彼らの話を聞いていると、「自分たちで農作物を育て、それを売ったお金で、自分たちの生活に必要なものを買う」というようなプロセスも「自給自足」の概念に入るようで、日本語で言う「自給自足」とはまた違ったニュアンスでその言葉が使われていました。ブータン人学生との議論のさいに、英語という言語の壁が立ちはだかったというのは確かにその通りなのですが、それ以上に、言葉の定義ひとつを取ってみても、文化的背景が異なるだけで、これほどの違いが出てくるのだということには大変驚かされました。
 プレゼンテーション準備を終えた日の夜には、ブータン人学生が日本から来た学生たちのために歓迎会を開いてくれました。手作りの料理でもてなしてくれ、また、民族衣装であるゴとキラを着せてくれました。ブータン人学生の日常の暮らしを知るとともに、とても思い出深い一晩になりました。

発表打ち合わせ

●おわりに

 CNRの学生とはすぐに打ち解けることが出来ました。とはいえ、彼らの内側の世界を覗いてみると、そこにはやはり日本人とは異なる精神性が宿っていることに気付かされます。人によって程度の差こそあれ、仏教的な価値観が彼らの行動規範になっているのだと、多くの場面で感じることがありました。
 ブータンに対して、必ずしも桃源郷的な理想像を押し付けようとするつもりはありませんが、私自身は今回のフィールドリサーチやCNRの学生との交流を通じて、ブータンが“幸せの国”たり得る理由を多少なりとも発見できたように感じています。感情の乱れや判断の迷いが生じたとき、ブータン人にとっての仏教にあたるような、心の拠り所となる“何か”が日本人にはあるのだろうか、あるいは自分自身にはあるのだろうか、というようなことを改めて考えさせられる旅でもありました。

最後_集合写真