Texted by: 大阪大学大学院理学研究科宇宙地球科学専攻 金丸 仁明 (超域2015期生)

 超域イノベーション博士課程プログラムの1年次の2月〜3月に行われている【海外フィールド・スタディ】。平成27年度は15年度生が2つのグループに分かれ、マーシャル諸島とスリランカを訪問した。本記事では、超域4期生(2015年度生)7人に加え、担当教員である三田先生、原先生、グレッグ先生が約2週間(3/8-3/24)滞在した、マーシャル諸島での活動について紹介する。

 2週間以上におよんだフィールドスタディでは、大学のキャンパス、研究室から飛び出して貴重な経験を得ることができた。初めて訪れた太平洋の島々の美しさに目を奪われたのはもちろんであるが、ハワイやマーシャル諸島で多くの人々に出会い、時間を共有する中で大きな感銘を受けた。渡航する前に実施された事前学習ではマーシャル諸島の歴史や現状を学んだが、海に囲まれた厳しい生活や核実験の歴史など、ネガティブなイメージや同情の念を抱いていたことも事実である。現地での研修を通し、ありのままのマーシャル諸島を見ることで、そういった固定観念が払拭されたことは大きな収穫であったと言えよう。悲惨な歴史や地域社会が抱える諸問題の下で、たくましく暮らしている人がそこにはいた。
 ここでは、マーシャル諸島で体験した人々の生活と環境問題、および、ホストファミリーとの出会いから得た経験を中心にまとめる。


人々の生活と環境問題

マーシャル01

 マーシャル諸島は太平洋の中央に浮かぶ5つの島と29の環礁からなる広大な海洋国家である。第一次世界大戦時に日本が占領し、その後日本の委任統治領となった。第二次世界大戦以降は、米国による統治が続いた。私たちが訪れたのは、クワジェリン環礁とマジュロ環礁だけであったが、そこにも多種多様な生活様式があったように思う。漠然と抱いていた伝統的な島の暮らしに近いものから、都市型の生活まで様々であった。諸外国から物資が入ってきたり、インフラが整備されたりして便利になった一方、ごみ処理などの環境問題や生活習慣病などの健康問題への対策が追いついていない印象も受けた。マーシャル諸島にもともと存在していたものと外から入ってきたものが混ざって存在しているようであった。  ハワイ・ホノルルから飛行機を乗り継ぎ、最初に向かったのはクワジェリン環礁である。この環礁の玄関口であるクワジェリン島は、太平洋戦争以降、米軍が基地として使用している。数時間におよぶ検問を終え、隣のイバイ島に到着した。

マーシャル02
イバイ島の海で子どもたちとたわむれる(襲われる)超域生たち

 イバイ島は、元気な子どもたちの笑い声が響き渡る島であった。地元政府の関係者によると、正確な統計はないものの、イバイ島の人口の40%近くが子どもであるということだった。40%近くが高齢者である筆者の地元と比べると、その違いに愕然とする。町を歩いていると、人懐っこい子どもたちに囲まれ、そのまま日が沈むまで遊び相手をすることになる。現地の学校を訪問したときにも、小学生から高校生まで多くの子どもたちと交流して、コミュニティーの若さやパワーを肌で感じた。
 子どもを沢山授かれば授かるほど豊かに暮らせるという考え方は今でも残っており、イバイ島の出生率はきわめて高いと、地元政府の方がおっしゃっていた。長さ3キロメートルほどの狭い島に、多くの人が暮らしている。バラック小屋のような家が立ち並ぶエリアがあり、イバイ島の住人の多くはこうした場所で家族とともに暮らしているようであった。一見すると「スラム」のように見えるのだが、ここにはドラッグも銃もない。イバイ島に来るためには、クワジェリン島の米軍基地を経由しなければならないため、そういった危険物を持ち込むことができないのであろう。地理的条件や米軍基地の存在などの特殊な条件によって、治安が守られている側面があるのかもしれない。いずれにせよ、友好的な島民や元気に遊び回る子どもたちの姿はイバイ島の大きな魅力であった。
 一方、ごみの問題は美しい海や島の景色の中で目立って見えた。食品や生活用品が外から大量に入ってくるようになると、ごみの量も増える。しかし、日本では一般的なごみの焼却処理施設は、イバイ島においては建設や運営にかかるコスト、ダイオキシンの発生への懸念などから普及していない。また、ごみを分別して捨てるなど、住民たちの環境への意識が浸透するには時間もかかる。島内で出たごみは、島の北部にある埋め立て地にほとんどそのまま運ばれていた。最近はごみの焼却も行われているらしいが、限られた島の大きさを考えると現在のペースでごみが溜まっていくことは持続性の観点から非常に心配である。
 次に訪れたマジュロ環礁エジット島でのホームステイでも、人々の暮らしと環境との興味深い関わりを見つけることができた。島で出会った人々は掃除好きで、庭の手入れやごみ拾いを日課としていた。整列して植えられたヤシの木やサンゴで作られた石垣などを見ても、マーシャル人の「ガーデニング」に対する情熱を感じることができた。
 その一方で、空きカンや食品トレイなどの生活ごみを島内や海にポイ捨てしている様子には矛盾を感じざるを得なかった。島で暮らす人々と滞在者にすぎない自分との間には大きな意識の違いがあったのかもしれない。「観光客」「部外者」の目線からすると、美しい海や島にごみを捨てるなんて・・・、というのが本音である。ひと昔前であれば、捨てるものもココナッツの殻など自然に還っていくものが多く、ポイ捨ても問題にはならなかったのであろう。それが今では、缶やプラスチックに取って代わっている。人の意識や行動はそのままに、モノが変わってしまったのかもしれない。生活スペースをきれいに保つことで、快適な暮らしや観光業の活発化につなげるなど、島民の生活とリンクする形でごみ問題への意識が普及していってほしいと考えている。

 私たちはクワジェリン環礁のエニラプケ島やマジュロ環礁のエジット島など、「離島」と呼べる場所に足を運んだ。ホームステイを行ったエジット島は「離島」といえども、マジュロ環礁の中心都市であるマジュロ島までボートで10分とかからない距離にある。食料や飲料水は街から仕入れ、洗濯も街のコインランドリーを使うというような生活であった。電気はマジュロ島から海底ケーブルでひかれ、海水を淡水化する装置も設置されている。一方、エニラプケ島では、収穫してすぐのココナッツを食べさせてもらうなど、エコロジーな生活の一部を体験することができた。この島はもともと米軍も使用しており、当時のレーダー施設などが残されている。電気や水道などは米軍の撤退と共に止められたそうである。米軍側の都合によって島民の生活が左右されてきたという歴史的経緯があり、中心街への依存度も含め、エジット島の暮らしとは大きく異なっていた。

 いくつかの環礁や島での研修を通して、マーシャル諸島のもつ個性や多様性がかなり見えてきた。ごみ処理や衛生状態、ライフラインの確保などが課題としてあげられる。海抜の低いマーシャル諸島では、気候変動によるダメージも受けやすい。ローカルな問題からグローバルな問題まで、さまざまな要因が島民の生活に大きな影響を与えていることを実感した。開発や援助を行う際には、島民の暮らしや島の状況に丁寧に寄り添うことが必要だと思った。


ホストファミリーとの出会いから

マーシャル03
ホストファザーAlsonと日焼けでこんがりの筆者

 “The Blue Continent”。これはエジット島でのホームステイ中、島を案内してもらっていた際に、ホストファザーのAlsonから聞いた言葉である。マーシャル人の環礁や海に対する考え方が込められたこの言葉が今でも耳に残っている。マーシャル諸島は、地図で見れば広い太平洋に浮かぶ小さな島々といった印象を受けるが、「海」を通じた島どうし、あるいは人どうしのつながりを感じることができた。
 ビキニ環礁では、1946年から1958年の間に米国によって23回の核実験が行われた。エジット島は、ビキニ環礁から避難させられた住民の移住先として整備された島である。Alsonは10歳のころにキリ島に移住し、その後エジット島にやってきた。端から端まで200メートルほどの小さな島には、血のつながりをもつ者どうしが沢山暮らしていた。エジット島を歩きながら、ホストファミリーと話す中で、マーシャル人が血のつながりを大切にしながら、家族や親戚と生活を営んでいることを知った。
 移民として国外で暮らすマーシャル人も多い。主な移住先は米国のハワイ州、アーカンソー州、オレゴン州などである。ホストマザーのBeneyに海外で行ったことのある場所を聞いた時も、親戚の暮らすハワイやアーカンソーを挙げていた。マーシャル人にとって血のつながりは強い絆を意味する。海や国を超えて感じる絆が彼らにはあるようだ。
 冒頭の“the Blue Continent”という言葉に戻り、太平洋で暮らす彼らが海をどのように捉えているかを考えてみる。Alsonはマーシャル諸島に伝わる伝統的なカヌーの文化を守るNPOのリーダーを務めている。伝統的なカヌーの製法を若い世代に引き継ぐと同時に、彼自身はマーシャル人が外海を行き来してきた伝統的な航海術を知る一人である。Alsonによる、マジュロ環礁から100キロメートルほど北にあるアウル島への航海がThe New York Times Magazineで報告されている。GPSも使わずに、自分の位置を知り、方向を知る知恵と経験は謎に満ちていて、大変興味深い。カヌーへの情熱、マーシャル特有のタトゥー、海水浴とそよ風の中での昼寝を愛する彼の生き様は、マーシャル諸島の伝統やアイデンティティを体現している。彼らにとって海は、空っぽの空間でもなければ、島と島を隔てる障壁でもない。むしろ島と島、人と人をつなぐように彼らの生活を包み込んでいると言える。
 マーシャル諸島と異なる点は多くとも、日本も「島国」と呼ばれる国の一つである。日本の委任統治時代から現在に至るまで海を越えて関係は続いてきた。いわば陸続きならぬ「海続き」である。日本がマーシャル諸島から学べることも沢山あるだろう。筆者自身は山育ちでこれほどまでに海に囲まれて過ごしたことは未だかつて経験がなかったが、マーシャル人の生き様に触れて学べることが沢山あったように思う。2016年の4月に熊本県、大分県を襲った震災(平成28年熊本地震)では筆者の地元も被害を受けた。震災は筆者にとって大きなショックではあったが、マーシャル諸島での経験と相まって、これまで意識してこなかった地元とのつながりや自身のアイデンティティを見つめ直すきっかけをくれた。フィールドスタディを通して、マーシャル人だけでなく自分自身のエモーショナルな側面と向き合った経験は、今後学んだり仕事をしたりしていく上での精神的な支えやモチベーションになってくれると期待している。


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